撮影写真より


旭川~新千歳の高速バス「たいせつライナー」宣伝ラッピングバス。新千歳空港は日本各地に就航している反面、旭川空港は国内定期便が羽田と中部しかない。羽田・中部以外から旭川となると、新千歳に着いてから一旦札幌に向かい、そこから高速バスか特急に乗り換えor羽田で乗り継ぎというパターンとなるが、このバスだと手間が省ける。飛行機の乗り継ぎ利用を見越してなのか、旭川発は午前中まで、新千歳発は午後以降となっており、約3時間という中距離+予約制だが事実上のリムジンバス。
運行はこのバスと同じ旭川電気軌道なので、自社の宣伝をラッピングしているということになる。というのも、この車両は神奈中からの中古車を塗装も変えないまま使っており、屋根の上は神奈中の黄色がそのまま。出入口の幕やLEDまで使いまわし、車内は殆ど神奈中のまま。塗装や装備を変える手間・広告を募集する手間を省いた結果。

問題

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スポーツ四択"1964年の東京大会において日本人初のパラリンピック金メダルを獲得したのはどんな競技?"
東京パラリンピックではなく「1964年の東京大会」という変な文面から始まるのが気になる。パラリンピックという文言が2度も入ることで文章が冗長になることを防いだのか、はたまた問題文を削減するためか。
これの答えは卓球。第2回パラリンピックとなったこの頃、日本の障害者は今のような地位はなく、差別と隠匿が当たり前だった時代。施設から無理矢理選出され、嫌々出場していたという。
選択肢のうち実際に行われたのは卓球とアーチェリーだけ。残りの2つはかなり歴史が浅く、カヌーはリオから、バドミントンに至っては東京2020からなので、まだパラでは一度も開催されていない。東京1964で実施されたうち今は行われていない競技として、アーチェリーとダーツを混ぜたダーチェリー、ビリヤードの一種スヌーカーが入っていた。

撮影写真より


ハイマウントストップランプを付ける前のしずてつバス。以前は普通に広告枠が付いていた。路線バスにハイマウントは標準装備すらされていないので、ネジ用とコード用の穴を開けて配線も引っ張ってくる必要があり、簡単にポン付けというわけにはいかず。その上で、収入になる広告枠をわざわざ撤去してまでハイマウントを取り付けたということは、よほどの理由があるのだろう。
リアバンパーのコーナーセンサーも当時はまだなかった。こちらは「右左折時は最徐行・一旦停止します」のステッカーの上から取り付けられている。

撮影写真より


愛知県豊山町とよやまタウンバス南ルート用のローザ。今は全便高速バス化された、名鉄バスの一般道経由の名古屋~小牧の廃止代替という意味合いもあるため、コミュニティバスだが名古屋市内にも乗り入れる。豊山町内は100円均一の反面、境界をまたぐと運賃が跳ね上がる。運行するあおい交通の他の路線同様、申告制の先払い。需要があるのかそこそこ乗客がいる。
コミュニティバスという性格上マイクロバスとなっているが、大半の経路が国道41号線のバイパスで、狭い道路といえば、豊山町側の終点・航空館boonの周辺道路くらい。車椅子用のリフトも付く。
ちなみに、リアにはFUSOロゴが2つも付いているが、片方は町のマスコットのステッカー(後付け)で上貼りされているので"SO"しか見えない。

撮影写真より


祇園祭の孟宗山の会所。四条烏丸近くのビルに囲まれている。この横には山などを収める蔵もある。通りからは見えない位置で、隣のビルにある宝石屋からは祭り期間外でも会所や蔵が見えるが、宝石屋も普通の人はそうそう入れず。普段は通路ごと閉ざされており、外のオフィス街ぶりからは、こんな場所があるなんて知らない人はまず気づかない。
山鉾はそれぞれの名が付いていることが多い鉾町の住民が管理・運営しているが、孟宗山がある笋町(たかんな、たけのこの意味)はビルばかりで定住者がほぼいないので、ビル内の企業の従業員が代わりに行う。
今年は一部の神事のみの開催で、稚児の選出や籤取り式も鉾立てもなく、実質的に限りなく中止に近い。来年も無理、というか完全に不透明。一夜で10~20万人も集まるので、もう今までのようには二度と行えない可能性もあり。

撮影写真より


警察のパジェロ。正式には災害活動車といい、災害地への派遣の他、平時では警備警戒にも使われる。災害地へ行くという用途上、どこでも走れる必要があるため、パジェロ以外の車種でも四駆ばかり。
このタイプで荷室の窓が塞がっていたり、屋根に上れたり金網になっていたりすると、現場指揮官車になる。文字通り屋根に指揮官が上って指示を与えるほか、メガホンが付いているので一般人に向けて警戒のアナウンスを流すこともある。一時期流行ったDJポリスが乗る車と言った方がいいか。

地図より


かつての京都市バス太秦小学校前バス停。のちにヒット路線となる70系統が経由するために開設されたが、スペースがないため、時刻表と看板代わりの「市バス」の横断幕を電柱に括り付けるという衝撃的なスタイルで設置。周りに何もない田舎の山道ならまだしもこんな都心で。
途中で「市バス」幕が鉄板に、直貼りだった時刻表も板に入れられたが、電柱に巻いたスタイルは実に10年も続いた。最近になって北行きは小学校のグラウンドのフェンスが後退して歩道が出来たので、ようやくまともなバス停になった。元々僅かな歩道があった南行きは、同時に細いタイプの標柱に変わった。南行きは最初からこうして標柱を立てた方がよかったのでは?